疲れている。
こんな状況では、チャンスが巡ってきてもつかみ損ねる。
しかし、事前にきちんと準備をしていれば、
そして、その思いが強ければ、
疲れていようが、疲れていまいが、
チャンスをものにできるはずだ。
だから、疲れなど言い訳に過ぎない。
言い訳していいわけ?
やはり私は疲れているようだ。
こんな時は恋のチャンスもフイにしてしまうのだろうか。
例えば、社長秘書の女と懇意になりたいとする。
中途半端な気持ちじゃなく、ほんとに懇意になりたいとする。
問題は、顔を合わせる機会が非常に少ないこと。
社長のところへ行く機会など滅多にない。
仮にあったとしても、会釈をして、挨拶程度の言葉を交わすだけ。
ほかには、ロビーなどでたまに見かけるだけ。
お互いの名字程度は知っているとはいえ、
ほかのザ・プライベーツなことは知らない、と仮定しよう。
まずは、社長秘書の女と、食事をしたい。
というか、マンツーマンで食事をできたら、それで良しとしよう。
そこがゴールでいいだろう。
今日は見かけることができるだろうか、
たとえ挨拶程度でも交わすことはできるだろうか、
何時何分に出勤したら偶然会えるのか。
と、毎日のように気にかかる。
どこに住んでいて、地下鉄は何線を使っているのか。
どんな話し方をするのか、どんな言葉を使うのか、
どんな文字を書くのか、どんなテレビ番組を見ているのか。
聞いてみたい、知りたいことは山ほどある。
そんな気持ちで悶々としている状況のなか、
思いがけず、仕事帰りの横断歩道、
信号待ちで隣り合わせになったとしたらどうするだろう。
「あ、どうも。お帰りですか。お疲れ様ですね」と自然に語りかけ、
「通勤は地下鉄ですか?」などと、少しずつ掘り下げていけるだろうか。
疲れていたらできないだろう。
プラスのエナジーを発することができず、
何かを話しても、カチカチの空気になってしまうような気がして
知らないフリをしてしまうはずだ。
疲れていると、チャンスが巡ってきてもつかみ損ねるのだ。
だから事前に考える。
こんなときは、こう話そう。
こう聞かれたら、こう答えよう。
いつどんな状況でも、そのチャンスを逃すべからずと
イメージ・トレーニングをする。
現実的に想像し、綿密に計算する。
そして運を引き寄せるのだ。
しっかりとイメージを持ち、目標を持って取り組んでいのが、
結局は近道なのだ。
そのことを、いくつもの失敗の中から学んだはずだ。
ところが、この世の中には、恐ろしいことに
「偶然」という魔物が存在する。
それまで積み重ねてきたものが、偶然に邪魔をされ、
何もかもがご破算になることは珍しくはない。
そのことも、いくつもの経験の中から学んでいる。
そんなタイミングの妙。
どうしようもないすれ違いや食い違い。一歩遅れや、先走り。
そういうものだと、あきらめて受け入れるしかないのか。
後悔の苦しみに、ため息の秋を過ごすのか。
よくわからない。
わからないが、人が生きるとはそういうことなのだろう。
私は疲れている。
日曜日はゆっくり休ませていただきます。