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30日日曜日、時計台ホールで開かれた、
とあるピアノ・スクールの発表会へ行ってきた。
そのスクールに知り合いがいるためである。
また、出演者のほとんどが成人であることも、
見に行きたい気にさせた。
その成人達の多くは、成人になってからピアノを始めたり、
子供の頃、ピアノを少しやってたいたが、大人になってから、
またやってみたくなったという人達だと聞いていたことが、
興味を高めた。
実際、出演者は20代後半の女性から、60代の男性までいた。

ピアノの音色は、30歳を過ぎてから好きになった。
時に癒され、時に安らぎ、時に興奮し、時に感動する。
そして、ピアノもやはりライブがいい。
プロでもアマでもいい。
むしろアマの方が、その人の息づかいが聞こえるような
生々しさがあって好きだったりする。

下手すぎると聴いていて辛くもなるが、
上手すぎるのも微妙に退屈だったりする。
なんとなく、おいていかれてる感じがして、
演奏を聞きながら別のことを考え始めたりしてしまう。
ただ上手であるだけではなく、
オーディエンスのハートと分かち合う部分というのが
必要なのかもしれない。
これはピアノだけではなく音楽全般、
さらには芝居でも、落語でも、説明会でもそうなのだ。

国会答弁や道議会答弁にしてもそう。
そうした答弁がバカらしいほどに退屈で何も
伝わってこないのは、
原稿を読むだけの、人間性のない、やっつけ仕事のように
存在しているからである。
それと文章センスの無さに尽きる。
質問も答弁も、理屈や文言にとらわれるあまり、
読むリズム感への配慮がない、というか無視している。

さて、ピアノ発表会は、一人が1曲を演奏し、次から次に登場する。
演奏の前に、その人のピアノ歴やその曲を選んだ理由などが
紹介される。
「続いては○○さんの演奏です。
 ○○さんは大人になってからピアノを始めました。
 スクールに通い始めて1年半になります。
 演奏する曲は、△△△△
 この曲を弾きたくて、ピアノを始めたそうです」
演奏が始まる。
1年半のキャリアでは、技術的におぼつかないところがある。
しかし、1年半でここまでできることに感動する。
そして、「これを弾きたくて、一生懸命やってきた」という思いが
伝わってくるのである。
ほんとうに素晴らしいことだと思う。
思い続けることがエネルギーになるのである。
夢の力、POWER OF DREAMSのすごさを改めて感じた。

また、子供の頃からピアノをずっと習いたかったが、
そういう機会がなかった人や
あるいは、相当のブランクのあった人の演奏を見ていて
勝手に想像したのが、
思うようにいかなかったことがパワーになっているのではないか
ということだった。

それは自分自身にもいえることである。
何をやってもうまくいかなかったり、
何をやってもなぜか虚しかったり、
春が来ることにワクワクするではなく寂しく感じたり、
そんな、ぱっとしない日々が、ある種の「ため」になっている。
私は「ため」があるから、エネルギーが湧くタイプなのだろう。

そう考えると、安易にストレスを解消してはいけないようにも
思えてくる。
「ストレスを解消できる趣味を持て」。
「仕事以外で、夢中になれるものを持て」。
そういうことを皆、口々に言う。
確かにそのとおりだとは思う。
しかも私はありがたいことに、
そういうものが人より多くあるように思う。
しかし、それで紛らわしたり、それにすがっていては、
次のエネルギーになる必要な「ため」が醸成されないのである。
ゆえに、行きたいところへ向かう、
あるいは、乗り越えようとすることで味わうストレスや虚しさ、寂しさは
取り除いてはいけないもののように感じている部分もある。
つまり、もっと向き合って、もがくぐらいでいいのかもしれない。

この日のピアノの演奏を終えた知り合いは、
ピアノを始めて3年にして初舞台だった。
とんでもなく緊張したという。
余裕が無く、いっぱいいっぱいだったという。
しかし、それはとても大事だし、必要なことなのだ。
自分の実力の容量をオーバーするような経験をすると、
実力は増す。
というか、容量オーバーの経験をしないと実力は
増していかないのではないか。
そんなことを考えた帰り道。
街の片隅での小さな発表会。
そこにも夢があり、未来があり、人生があった。


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今日(27日)の朝、このブログのアクセス数が
「20,000」を突破した。
このクグエ度の強い、身勝手な内容にもかかわらず、
お付き合いをいただいている皆様のおかげであることに尽きます。
改めて、感謝申し上げます。
ありがとうございました。

内容ではない。
同じ素材でも、クグエ氏が書いたんだなと感じられるようにする。
そこに重点を置いてきた。
誰でもできることこそ、違うふうに表現したいという、
パーソナリティ重視、オリジナリティ優先の考え方が、
クグエ・カルチャーの根幹となっている。
そういうわけで、
まだまだ至らないところはあると思いますが、
今後ともよろしくお願いいたします。

ところで、この「20,000」という節目のカウントを
アクセスするのは誰なのだろうかと少し気になっていた。
それに当たった方は、なんらかの形で教えていただきたい、
そんなことを思いながら、今日の朝8時45分頃、
自分のブログを見てみた。
すると、アクセス・カウンターの数字は、「20,000」だった。
20,000アクセスに当たったのは自分だったのだ。

この運の無さ、というか、「ひとり上手」的展開にがっかりした。
誰かにパスしたはずのボールを、自分で受け取ったかのようである。
私から私へのスルーパスである。
「FROM ME TO ME」である。
「オレ・フューチャリング・オレ」状態、
「オレとオレのコラボ」状態である。

このアンラッキー的状況は、その後も引き続いた。
今日は仕事で北広島と恵庭へJRで向かう予定だった。
そこで午前10時20分頃、JR札幌駅へ。
すると改札口付近に不自然な人だかりができていた。

不穏な気配を感じながら、改札口の電光掲示板に目をやると、
札幌から千歳方面への便が運休になっていることを知らせていた。
北広島市内の線路が破損し、
補修作業を行うため運休になったのだ。
駅員の情報では、復旧にはまだ2時間程度かかる、とのことだった。

とりあえず職場に戻った。
北広島は11時、恵庭は14時に行く予定だった。
まず、北広島での用務をキャンした。
そして復旧を待って、間に合えば恵庭に行くことにした。
午前中は、いつ復旧するのかを
JR北海道のホームページで確認するばかりで、
落ち着かない時間が流れた。

しかし、そんなことは大したことではない。
問題は、JR北広島駅界隈でとるはずだった昼食が
できなくなったことである。
JR北広島駅界隈で食事をするなど、滅多にない機会である。
正直、月曜日から、そのことで頭がいっぱいだった。
キタヒロチックな店で、キタヒロライズされたものを食べる。
これが今週の私のモチベーションだった。
その機会を失った私のダメージは大きく、
昼食はセブンイレブンの「もちもちあんドーナツ」を
食べるのがやっとだった。

「運がない」は「アンラッキー」。
「嬉しくない」は「アンハッピー」。
「信じられない」は「アンビリーバボー」。
あんドーナツは、どういうわけかドーナツなのに穴がない。
ゆえに、「穴がない」は「あんドーナツ」なのか?
そんなことを考えていた12時40分頃、
千歳方面へのJRが運行再開したことを知った。

その後、JRで恵庭へ。
なんとか14時少し前に恵庭に到着。
滞りなく用務を終え、17時35分頃のJRで札幌へ。
18時頃、JR札幌駅に到着。
そして改札を通る、はずだった。
しかし、簡単に改札は通れなかった。

アンビリーバボーなことに、切符を紛失したのだ。
ポケットにものを入れない男、クグエ@スカイウォーカーは、
切符をズボンのポケットに入れていた。
それははっきりと覚えていた。

全てのポケットを探した。
しかし、ない。
どこにもない。
落としたような場面はなかったが、落としたのだろう。
あるいは、ガムと間違って食べてしまったとしか思えなかった。

しょうがないので、改札付近の窓口にて駅員に
事情を説明することにした。
恵庭駅からの料金620円を払うことも覚悟していた。
しかし、私が恵庭から乗車した証拠は何もナッシングである。
こんなことなら、せめて、
恵庭に同行した中村NBRとM美に証人になってもらうべきだった。
二人には、「切符探してから改札通るから、先に帰っていいよ」と、
既にグッバイしてしまっていた。

駅員には、どこから乗ったのか、
何時何分の便だったか、料金はいくらか、
恵庭のどこに何の用事で行ったのか、など聞かれた。
用務で使った資料まで見せた。
恵庭の相手先に電話で確認してもらってくれと懇願した。
その結果、そのまま改札を通してくれた。
切符が紛失したことを信じてもらい、ノーマネーで通してくれた。
私は思わず駅員に、
「きっぷがいいね」と言いそうになったほどだった。

朝から、アンラッキー、あんドーナツ、
アンビリーバボーなことが続いた。
しかし、最後はラッキーだった。
いや、アクセスが20,000になるまで見てくれる方々がいること。
それが今日最もラッキーなことだった。
いや、今日だけじゃない。
取り巻くみんなのお陰で、
結構ラッキーな毎日を送らせてもらってると思ってるぜオーライ!


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私は、ポケットにものを入れない男である。
普段着の時、ポケットに入れるものは車のキーのみである。
スーツ姿の時、ポケットに入れるものはハンカチのみである。
また、初対面の人に会う時に名刺を入れているぐらいである。

なぜ私は、ポケットにものを入れないのか。
洋服の形が変わるから、
というか、身体の形が変わって見えるからである。
それと、何か身体のバランスが悪くなるような気がするからである。

つまり私にとって洋服のポケットはデザインであり、
ものを入れる機能として捉えていないのだ。
特に、ズボンのポケットにものを入れるのは考えられない。
もちろん皆さんがそうすることは何の問題もない。
自分自身だけのこだわりである。

例えば、職場の喫煙所に煙草を吸いに行く時は、
煙草1本とライターを手に持っていく。
煙草の箱をワイシャツの胸ポケットに入れることはしない。
ワイシャツの胸ポケットが四角く浮き出るのが嫌だからである。
不自然に胸囲がアップしたかのように思われたくないからである。

このこだわりは面倒でもある。
財布、携帯電話、煙草、キーのみの外出でも、
私の場合はバッグを必要とする。
つまり、常に人より荷物がひとつ多い状態になる。
ただ、それに慣れてしまっているせいか、
手に何も持たないで外を歩いていると、
微妙に不安で落ち着かなかったりもする。

今日も空のポケットで職場へ向かう。
続きはトゥナイ。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 
ここまでは、25日の朝に書いた記事である。
この続きを今書こうとしている。
しかし、全く続きを書ける気がしない。
とはいえ、「続きはトゥナイ」と、
英語的発音のカタカナ表記で、
読者の皆様にブロミスしたからには、書かないわけにはいかない。
正直、スランプなのかもしれない。
空っぽなのは洋服のポケットだけではなく、
私の頭の中のポケットも空っぽなのかもしれない。

21日金曜日の夜から24日までの3連休、
ある人とカレーを食べに行き、別の人と飲みに行き、
さらに別の人と小樽で餃子を食べ、美園でそばを食べた。
音楽を聴き、音楽を奏でた。
久しぶりに映画も見たし、冬用のワイパーも買った。
なのに、ブログ・ネタにできない。
やっぱりスランプなのかもしれない。

例えば、スープカレーにしても、ラーメンにしても、
それなりに美味しかった店で記事にしていないのが、
それなりの数ある。
しかし、手堅く、安心・安全な店が多く、エピソードに欠ける。
要は、ストーリー性が薄いのである。
クグエ的切り口で、セクシャル・バイオレットなことを書けるような
パッションに至らないのである。

もちろん、手堅く、安心・安全な店は評価すべきである。
しかし、エナジーがわき上がらないのだ。
ドラマチック・レインは降らず、薄曇りなのだ。
ところが、「恋愛と結婚は別」などと思っている女性は、
こういう状況でも、エナジーがわくのではないか。
なぜなら、「恋愛と結婚は別」という考えの女性は、
パッションよりも、手堅く、安心・安全を重視すると思われるからだ。

私は、「恋愛と結婚は別」というのが、未だに全く理解できない。
「恋愛と結婚は別」というのは、
極端に言えば、不純にさえ思う。
恋愛の延長線上に結婚がなければやってられないけどな、オイラは。
一番好きではない人と結婚できるか?
それは、本質ではないところで頭と身体が反応するということであり、
極端に言わなくても、不純だと思う。

ただ、これは個人の価値観の問題だから、どうしようもない。
何が正しくて、何が間違いかの答えなど出ない。
とにかく後悔しないで生きるだけだ。
そして、うまくいかなくても楽しむ。
そう思ってないとやってられないぜオーライ!


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20日の札幌市内は雪景色となった。
気温もグッと下がり、真冬日となった。
しかし雪が積もると、茶色や灰色だった景色が白くなって、
明るくなった感じがするし、
雪がなかった時より、なんとなく暖かくなったような気もする。
人間の感覚は不思議なものだ。

081120公園 
ただ、そんなちょっとした刺激は一瞬のこと。
現実は寒い。
そして、なにかと面倒になり、厄介になる。
歩くのも、車を運転するのも、朝起きるのも、
風呂に入るのも、さらには着替えまでも手間と時間がかかる。
また、寒さをこらえるため、知らず知らずのうちに
身体に力が入っているのだろう。
帰宅後、思いの外、疲れていることがある。

確実に本格的な冬は近づいている。
それと合わせて、12月6日のライブまで、約2週間となった。
今回のライブは、THE HEART OF STONE というバンドで
ステージに上がる。
詳細は、11月4日の記事で紹介したところである。
また
THE HEART OF STONE のホームページで、
現在2曲をフルに聴くことができるので、そちらも是非どうぞ。

THE HEART OF STONE 081116 
では改めて、THE HEART OF STONE のメンバーを紹介しよう。
メンバーは、クグエ@スカイウォーカー(ボーカル・ギター、チェックの人)、
TNKタナカ(ギター、一番手前)、ミチ(ベース、チェックの隣)、
小田氏(ドラムス)の4人。
1992年、私が倶知安町に転勤したことをきっかけに、
その周辺に住んでいた高校の同級生を中心に結成した。

その後、精力的に活動を続けたが、メンバーの転勤等により、
99年頃からはTNKタナカを除く3人で活動。
01年3月からは、事実上活動を行っていなかった。

現在、ライブに向けてスタジオ・インをしているが、
週1回しかインしていない。
なぜなら、その程度しか、札幌に集まることができないからだ。
ミチは共和町、オダ氏は小樽市に在住。
TNKタナカに至っては、斜里町(知床半島のつけ根の町)在住である。

札幌まで共和町からは約2時間、小樽からは約1時間である。
この季節、ライブ直前1か月の週一のスタジオ・インは大変たど思うが、
日帰り圏内であり、
まだ可能な位置にある。
ところが斜里は、札幌から約380kmの距離にある。

日帰りはおろか、1泊2日でもハードな距離である。
毎週末、札幌に来てもらうことは、
体力面、精神面、財政面全てにおいてハードである。

こうした状況の中、果たしてどんなライブになるのか。
ただ、ひとつ言えること。
それは、距離を超え、労力とお金をかけてでも
やる意味があるということだ。
人生はパズルのようなものだとすると、
欠けているピースのひとつが、音楽活動なのかもしれない。
そういう気持ちで、私以外の3人は通ってくれているのだと思う。

THE HEART OF STONE 081116Ⅱ  
さて、今回のライブで演奏する曲のひとつが、

「あてのない旅」という曲である。
98年にリリースした6作目のアルバムに収録されている。

大変思い入れの深い曲である。
10年くらい前に作った曲である。
10年以上前に作った曲だと、自分で作ったのにもかかわらず、
10年くらいの間に嗜好や考え方が変化するなどして、
「いまさら歌う気がしない」という曲はある。
ところが、「あてのない旅」は、今も作った頃と同じ気持ちで、
いや、その頃以上の実感を持って歌える。

あてのない旅

どこにもやり場のない苦しみ
伝わることのないはがゆさよ
振り回されて おいら疲れた
もうひとりでいい 後悔しない

そしてあてのない旅に出るのさ
川を越え 闇を抜け
どこか遠い街へ行くよ そこがオイラのふるさと

枯葉は風を恨んではいない
散りゆく運命(さだめ)に未練などない
この街はとても住み慣れた街
まわりの人達もやさしくしてくれる

だからあてのない旅に出るのさ
靴底を減らしながら歩いてゆくよ
たどり着けば そこがおいらのふるさと

向かい風に吹かれながらも
冷たい雨にうたれながら
君に会いにゆくよ きっと

だからあてのない旅に出るのさ
靴底を減らしながら歩いてゆくよ
たどり着けば そこがおいらのふるさと


ややスローテンポながら、アタックの強い曲で、
THE HEART OF STONEには珍しい大ぶりなサウンドである。
そして、詞・曲とも、クグエ・ロック史を総括した時、
間違いなくトップ10入りするであろう代表作である。

これは、メンバーも異論がないだろう。
問題は、この曲をどこまで表現できるのか、
どこまで伝わるものにできるのかである。

「たどり着いたところがふるさと」というのが、
大きなテーマになっている曲である。
これは、たどり着いたところが見知らぬ場所であっても、
そこが自分に相応しい場所であり、あるべき場所なのだ、
という意味と、

見失い、しくじって、様々な道をさまよって、
でも結局戻ってくるところは原点のような場所なのだ、
という意味を込めた。

そして、クグエ氏が作った歌詞である最大の証は、
「靴底を減らしながら歩いてたどり着くこと」である。
「汗をかきながら」たどり着くのではない。
「涙をこらえて」たどり着くのではない。
まして、「がんばって」でも、「あきらめないで」でも、
「負けないで」でもない。
ただ「靴底を減らしながら」、そして「歩いて」たどり着くのだ。

歩いていけば、必ず「どこか」へはたどり着く。
その「どこか」が良いところか、悪いところかはわからない。
しかし、歩いて行かなければ、どこにもたどり着けない。
そういうことを歌いたかったのだ。
そして私はまだ、靴底を減らしながら歩いている真っ直中にある。


テーマ:作詞・作曲 - ジャンル:音楽


「湊かなえ」の「告白」という本を読んだ。
この作品は、彼女のデビュー作である。
そして、今年の代表的な作品になるであろう話題作である。

この作品の存在を知ったのは、新聞の下段にある広告だった。
9月以降、この作品の広告を何回か見かけた。
「各方面から絶賛の声」、「各メディアで大反響」などの言葉とともに、
「愛美は事故で死んだのではありません。
 このクラスの生徒に殺されたのです」という、
この作品のキャッチコピーともいえるフレーズが書かれており、
ずっと気になっていた。

さらに、本屋に行けば、
常に目立つ場所に平積みになっていたこともあり、
なんとかして読みたいと思っていた。

そこで、図書館に貸出予約をしようと考え、状況を確認。
すると、約1,000件前後の予約があった。
とんでもない予約件数の多さである。
札幌市中央図書館において、ダントツで№1である。

札幌市内の図書館に、この本は26冊あると思われる。
1冊につき、1か月で2人に貸し出されるとする。
26冊あるため、1か月で52人。
1,000人目に順番がくるのは、約20か月先である。
そこまで待つことなどできやしない。
結局、紀伊國屋書店にて購入した。
湊かなえ/告白 


物語は、ある中学の女性教師の娘(4歳)が、

学校のプールで水死した事件を軸に、
それを取り巻く人達の告白で綴られている。
「愛美は事故で死んだのではありません。
 このクラスの生徒に殺されたのです」のフレーズのとおり、
犯人は中学生2人だった。
その中学生に対する女性教師の復讐に関する告白、
中学生が殺人を犯した経緯についての告白、
クラスメイトの告白、
犯人の親の愚かな告白で構成されている。

非常に面白かった。
それぞれの人の告白は語り口調なので、
話を聴いているような感じがして読みやすい。
読みやすいが、読み応えは十分。
文体はさらっと、淡々としている。
しかし、じわじわと浸され、
気づいたらどっぷりとつかっているような
引き込みパワーの強い作品だった。
5ページくらい読んだら、もう読むのをやめられなくなった。

とにかく、登場人物にまともな者はいない。
皆、ひたすらに陰湿で、勝手で、短絡的。
そして、憎しみが連鎖していくような展開をする。
ゆえに、不快感や嫌悪感を抱く方はいると思う。
後味が悪く感じる方もいるだろう。
その反面、下手に「救い」になるようなことを書いていない徹底ぶりが
功を奏したともいえる。
私はダークさを凌駕し、ただ単純に物語に没頭させられた。
また、ところどころ思いがけずユーモラスなのも非常に良かった。

中学生の犯罪ということで、
少年法の問題を掘り下げているか、といえばそうではない。
子供を失った悲しみを深く描いているわけでもない。
劇的でもないし、リアリティにも乏しい。
考えさせられることもなければ、感情移入もない。
ところが、面白い。

どことなく、宮部みゆき的な雰囲気が漂うつくりにも感じるが、
裏を返せば、宮部みゆき作品が好きな方は楽しめると思う。
特に、「火車」や「理由」が好きな方にはオススメ。
また、東野圭吾のダークな作品的な匂いもするが。
出版しすぎで質の低下が顕著な最近の彼の作品よりは
数段楽しめる。

繰り返しになるが、ストーリーは陰湿である。
ただ、的を射ている部分もあり、ある意味、痛快でもあった。
例えば、「この子はやればできるんです!」と、
教師に食ってかかるバカ親について、女性教師が、
そうやって言われる子は、
「やればできる」のではなく、もはや「やることができない」と、
バッサリ切り捨てるところは、にやっとしてしまった。

バカ親といえば、給食費を払わない親に会ってみたい。
見た目どんな人で、どんな喋り方をする人なのか、
微妙に興味がある。
ちなみに、スーパーなどの身障者用駐車スペースに、

身障者ではないのに平気で車を駐める子供連れの親を見ると、
「この人、給食費払ってないだろうな」と勝手に想像している。

人それぞれ嫌悪感や不快感を抱く対象は違うだろうが、
身障者ではないのに身障者用駐車スペースに
平気で車を駐める人は、
私の中では、嫌悪感・不快感のトップクラスである。
時々、そういう人に声をかけたくなる。
注意するのではない。
こう聞きたくなるだけだ。
「馬鹿ですか?」
できるわけがないけど。


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先日、「虚夢」(きょむ)という小説を読んだ。
夏から札幌の図書館に予約をしていたが、
予約数が多すぎて、順番が回ってくるのは
何ヶ月も先になりそうなので、旭屋書店で購入した。


作者は「薬丸岳」(やくまる・がく)。
彼の2005年の作品、「天使のナイフ」は、
少年法の限界と矛盾を描いた、やりきれなくも非常に切ない内容で、
私の中では、2000年代に出版された小説において
トップ10入りするであろう素晴らしい作品である。
そんな薬丸氏の2008年の作品が、「虚夢」である。
今作では、精神障害を持った人の犯罪を描いている。

薬丸岳/虚夢 
舞台は札幌の平岸。
その冬はじめて雪で覆われた公園。
そこで遊んでいた4歳の娘とその母。
2人は、精神障害者である通り魔にナイフで襲われ、
母は重傷を負い、娘は亡くなった。

ところが、犯人は精神障害者であるという理由で不起訴となった。
不起訴ということは、裁判が行われなかったということであり、
つまりは、罪を問われなかったということである。
そして滝川にある病院の精神科へ送り込まれた。

娘を失った夫婦は、生活が崩壊。
妻はPTSDを患い、日を追うごとに症状が悪化し、結果的に離婚。
その事件から4年が経った時のこと。
妻は偶然、札幌市内で犯人の男を見かけた。
たった4年で、普通に生活していることを知り、愕然とする。
妻は、離婚した元夫に連絡をとる。
連絡を受けた元夫は、犯人の追跡を始める。

やがて、犯人の居場所を突き止めるが、
犯人の私生活において新たな事件が発生。
一方、妻の病状はさらに悪化。
こうしたことが複雑に絡み合い、どんでん返しもありつつ、
話は進んでいく。

先が知りたい気持ちを抑えきれず、
2日間、深夜読書をして読み切ってしまった。
登場人物のキャラの棲み分けがうまくできており、
場面の描き方も的確。
また、刑法第39条の問題を、一般人の視点で表していることや、
展開がうまく整理されていることから、わかりやすいし、読みやすい。
結果、どうなっていくのかの興味度が高まり、
眠たくっても、疲れてきても、電気代かさんでも、
灯油代かさんでも、やめられない、というプリプリ状態で読み倒した。

最後まで集中して読める面白い作品だった。
ただ、コンパクトにまとめられた気がする。
精神障害者の犯罪という、もっと知るべきだし、
もっと考えたいテーマであることからすると、
プラス100頁にして厚みを持たせ、
さらにえぐるような展開にしても良かったような気がする。
なんとなくあっさり終わった印象で、
ストーリーが壮絶なわりに、余韻が少ないという印象も残った。

もう少し、はみ出しても良かったと思う。
「もう一歩掘り下げれば、息づかいが聞こえるのに」
というところを削って、わかりやすくスピーディに、
そして、良くも悪くも、きれいに整理された感がある。

舞台が、6年くらい住んでいたことがある平岸であったことも
場面を見えやすくした。
さらに、犯人の男は、留萌の高校を卒業し、留萌の水産会社に就職。
その時に精神的にやられたという設定である。
ただ、それ以外、留萌を描いていない。
逆に、犯人の男と懇ろになった女は羽幌の出身という設定。
羽幌については、バスターミナルや飲み屋の雰囲気が描かれており、
さらに、クライマックスは、
羽幌のサンセット・ビーチを見下ろす丘である。
羽幌サンセットビーチを見下ろす丘 


現在、羽幌町在住で、この作品を読んだ方は
3人にも満たないような気がする。
もしかしたら、いないかもしれない。
羽幌町立図書館に電話をして教えたいぐらいだ。
もし、私を喜ばせるようなファンキーモンキーな反応を
してくれたら、この本を寄付してもいいと思っている。

ただ、羽幌町の図書館に電話をするとして、
最初になんと言えばいいのだろう。
何から伝えればいいのか、わからないまま時は流れるのではないか。
結果、何ひとつ言葉にできないという、
小田和正ティックな展開になりそうだ。

そんなことを考えていたら、「言葉にできない」を聴きたくなった。
パソコンに保存してあるはずだと思い、
パソコン内の曲が表示される画面を出し、「言葉に」で検索した。
しかし、「言葉にできない」は表示されなかった。
パソコンに保存していなかったのだ。
出てきたのは、「C調言葉に御用心」(サザンオールスターズ)だった。

さて、この物語の軸になっている刑法第39条。
この条文は、「心身喪失者の行為は罰しない」と
「心身耕弱者の行為はその刑を軽減する」である。
心身喪失者は「責任能力のない者」、
心身耕弱者は「責任能力が減退している者」である。
不必要な規定だとは思わないが、納得はできない。
いくら心身喪失者とはいえ、無差別殺人を許せるわけがない。
というか、人を殺すこと自体、精神障害の有無に関係なく、
まともな精神状態ではないだろう。

この作品の中で、刑法第39条について、
「精神障害者と精神障害をもつ犯罪者とを混同させている」
という一節がある。
私も同感である。
「どんな人がやったのか」より、犯罪の事実を重視すべきである。
犯罪の内容より、「どんな人がやったのか」の方が重たいのか?
命の価値ってそんなもんか?
このことは少年犯罪にも言えることである。

もちろん犯罪に至った経緯は様々な場合があるため、
十分考慮すべきたが、
無差別殺人にどんな考慮が必要だというのか。
まして生い立ちだとか、環境だとか、うんざりである。
それによって刑が変わるなんて信じられない。

また、物語の中で、精神障害者による犯罪を、
マスコミがタブー視することに触れている。
無差別殺人の犯人が精神障害者だとわかった途端、
マスコミはなんらの報道をやめたのである。
そんなマスコミに対する壮絶なる挑戦も描かれている。

マスコミのあり方の問題は、ずっと言われていることだが、
その権力たるや、警察や裁判所、ひいては法律を凌ぐと
感じることも多い。
例えば最近ならば、小室哲哉事件。
私自身、彼に対してなんらの同情はないが、
マスコミやメディアの袋叩きぶりはひどい。
裁判官が裁く前に、マスコミやメディアが
裁いてしまったようなものだ。

さらに、小室妻が姿を見せるというだけで、
大分県での小室妻のお父さんの法事にマスコミが殺到した。
その分別の無さに呆れた。
話題の人ならば、どこへでも、どんな状況のところへでも
行ってしまうのか。
情けない。プライドはないのか?

刑法第39条に話は戻るが、
被害者のことを考えれば、このまま野放しにしていいわけがない。
法律を変えられるのは、国会議員である。
麻生総理におかれては、マンガばっかり読んでないで、
こういう小説も読んでいただきたい。
そしたら、今より漢字も覚えるだろう。
読み違いも減るだろう。
しかし、「定額給付金」をばらまけば、国民は喜び、景気も回復?
読み違いをしているのは、漢字だけではないようだ。


テーマ:オススメの本の紹介 - ジャンル:本・雑誌


お経を聴くのは嫌いじゃない。
なぜなら、心が安まっていくのを感じるからだ。
心が無になるような感覚になり落ち着くのだ。
なにげに流れているボブ・ディランの曲にほっとする感覚と
遠くない。

ただし、お経が上手な僧侶の場合に限る。

お経は、まさしくミュージックである。
メロディがあり、歌詞があり、展開もする。
さらには、木魚をはじめ、楽器的なものまである。

「お経はミュージックである」と捉えるならば、
当然、上手な人と下手な人がおり、
向いている人と向いていない人がいる。
私は、そこに敏感である。

お経が上手な僧侶は、声の厚み、深み、つやなどが違う。
発音も違うし、抑揚のつけ方もきれいである。
迫力タイプもいれば、実に味のあるタイプもいる。
いいお経を聴いた後は、ありがたい気持ちにもなる。
逆に下手な僧侶のお経は、ジャンル的には雑音に属するため、
時間が経つのが長く感じるし、損をした気分にさえなる。
「練習しろって」、「センスねえなあ」など、
失礼なことを考えながら聴いていることもある。

なお、お経を聴くのは、実家に僧侶が来た時や、
法事や葬儀の場だけである。
つまり、ライブでしか聴かない。
僧侶の方々は、もっとライブを大事にすべきだと思う。
それに、ある種のサービス業意識も持っていただきたい。

今後、この国が経験したことがない高齢化社会となる。
僧侶の需要も高まるだろう。
それによって、僧侶の質が落ちることが懸念される。
一方、過疎化が進む地域の寺はやっていけるのかと
心配になることもある。
ただ、間違いなく言えることは、
私には、僧侶や寺のことより、他に懸念したり、
心配したりしなければならないことがあるだろうということだ。
僧侶や寺より、自分の心配をした方がいいんじゃね?
ということだ。

なお、「お経はライブのみ」の私は、
もちろん、お経CDなどは持っていない。

私の車に乗り、カーコンポからお経が流れて来たら、
とりあえず、すぐに降りたくなるだろう。
また、i-podにお経を入れていたら、やばいだろう。

私は仏教への造詣が深くない。
仏教の教典や歴史の知識もかなり中途半端である。
ただ単純に、素晴らしいお経はいいよね、と、
BE-POP感覚で、あるいは芸的感覚で思うだけである。

自分で唱えようとも思わない。
完全受け身志向である。

高校を卒業するまで実家にいた。
その頃、毎朝、祖母はお経を読んでいた。
月命日(月3回くらいあった)には、家に僧侶が来てお経を唱えた。
このように私は、お経を身近に感じられる環境で育ったことが、
現在の状況に影響しているかもしれない。

しかし当時は、お経が退屈で、不必要に長く、
なんとも煩わしいもののように感じていた。
ところが、10年くらい前から、感じ方が変化してきた。
いくつになっても、まだまだ新しいものに出会いたいと思っている。
ところが、それと同時に、年齢を重ねるごとに、
小さい頃、身近にあったものに、
無意識のうちに出会っているようなことがある。
あるいは、意識的に出会いたくなることもある。
人生は不思議だ。
人生は前に進んでいるのに、
故郷へ帰る旅のような部分もあるのだと感じている。


テーマ:ひとりごとのようなもの - ジャンル:日記


久しぶりにスープカレーの記事である。
スープカレーに関しては、
「スープカレー・アワード 2007-2008」と題して、
7月から8月にかけて3回に分けて紹介してきたが、
その後、軌道修正の必要を感じ、サイレント状態でいた。

なぜ軌道修正の必要を感じたのか?
最初のうちは、7月、8月の2か月で完結させようと考えていた。
ところが、別の話題を記事にしているうちに、
スープカレーで2か月完結は無理だと感じてきた。

そうなると、9月、10月に及ぶことになるが、
その間に、新たなカレー屋に行き、
既に紹介した店や、次に紹介しようと思っていた店よりも
美味しい店に出会ったりもした。
また、1回目で、グランプリと準グランプリを発表した結果、
その後、それに及ばなかった店を紹介していくことになったが、
それがテンションの低下を招いた。
そこで、今回から仕切り直しをして、
スープカレー・ストーリーを展開していきたい。

さて、皆様ご承知のとおり、私のスープカレー・ストーリーは、
味以外の要素が多い。
どうしてかって?
作り方やスパイスの調合なんかが、よくわからないからさ。
つまり、味の細かい話ができないっていうわけさ。

それと、味だけではなく、居心地の善し悪しがとても重要だからさ。
そういうわけで、仕切り直しをしつつも、
これまでと同じ雰囲気で、お送りさせていただく。

さて、最近の知り合いの中に、
「スープカレー横丁にある店は全部行ったっす」と
話していた女性がいた。
スープカレー横丁は南2条東2丁目に今年4月にオープン。
6つの店が軒を連ねている(現在は店の数が減ったとか…)。
スープカレー好きを公言しているならば、
既に訪問していなければならないスポットである。

いや、訪問したことはある。
2度ある。
しかし、2度とも、眺めたり、ちらっと覗いたりしただけで、
食事はしてこなかった。
なぜなら、食べたい、という欲求が起きず、
食べておかなければ、という義務感も生じなかったからだ。
2度とも活気がなく、惹きつけるようなカレーも存在せず、
ちっともワクワクしなかったというわけだ。

彼女に、どこの店が美味しかったかと聞くと、「特になかったっす」。
そこで、「じゃあ、どこのカレー屋か好きなの?」と聞くと、
「イエローっす」と返ってきた。
20代後半の女性に、この語尾で答えられると、
どう反応していいかわからないっす。
でもなんにも問題ないっす。


■イエロー(札幌市中央区南3条西1丁目 エルムビル1F)yellow/カレー 
というわけで、イエローである。

初めて食べたカレーの味を表現する時、
「イエロー系だよね」と、比較対象の代表として用いられるほど、
ひとつの系統を築いたカレーと言ってもいいだろう。

トマト系のライトなこってり味で、
キレよりも、コクでうま味を引き出すタイプのカレー。
また、ベースが安定しているような印象を受けるしっかり味である。
そのため、色々なスープカレーを食べている方にも、
スープカレー・ビギナーにも支持を得られる味だろう。

つまり、きちんとしていて、普通に美味しいのだ。
最初は塩気が強いかなと感じるが、すぐに慣れ、食の進み度も高い。
十分に人に薦められる味だし、
イエローのカレーが一番好きだという方も多くいると思う。

ところが、食べ終わった後、なぜか印象に残らない。
まとまっている反面、悪い意味で後に引く味がない。
味に立体感が
ないからなのかもしれない。
要は、余韻が残らない味なのだ。
家に着くと、その日カレーを食べたことを忘れるほどだ。

これを物足りないと感じるか、
ナチュラルかつライトで食べやすい味だと感じるかで
評価は分かれるだろう。

この分かれ目は、
パートナーが「空気のような存在」であることを求めるタイプか、

「気がつかないまま通り過ぎてしまう出来事は、
その人にとって起こらなかったも同然だ」と考えるタイプか、
によるだろう。
いや、そんなことはない。

あと、この店は喫煙席の徹底度がすごい。
ガラス戸で完全に仕切られており、禁煙席に一切煙は漂わない。
逆に喫煙席のタバコ臭さはひどい。
試しに喫煙席に入ってみたが、
密閉された喫煙スペースたる強烈な悪臭に、
5秒ぐらいですぐに出てきた。
思わず、「はんぱねえ」と口走ったほどだ。
この空間で食事をする人の感覚が全くわからない。

時代の要請に即しているという点では非常に嬉しい対応である。
ただ、禁煙席から喫煙席を見ると、
透明な檻のように見え、「人間ZOO」のごとくである。

しかも、煙でもうもうとしている喫煙席の様子を
目にしながら食することは、
実際の味よりも美味しくなく感じるような気がしているんだけど、
君はどう思うかな。
yellow/店  

■ドミニカ(札幌市中央区南2条西6丁目 第2三谷ビル1F)
イエローと同様、普通にきちんと美味しいのだが、
なぜか印象に残らない店つながりで登場するのが「ドミニカ」である。
場所は東急ハンズの西隣。
ビルの入口には、象の置物が構えている。
ドミニカ/店 

5年くらい前にドミニカ初体験をしたときは、
まろやかながらキレがあるその味に、驚きと喜びがあった。
ところが、味が変わったのか、私の味覚と感覚が変わったのか、
コクもキレも、なりを潜め、味が丸くなったような気がしている。
なんとなく、しょうゆっぽい和風味が強くなってような気がする。

それでも、美味しいことは美味しい。
まとまりがあり、万人ウケする味だろう。
実際、行くたびに混んでいるし、
行列ができているシーンを何度も見ている。
ドミニカ/カレー 
ただ、後半、和風味のしょっぱさに飽きてくる。
というか、スパイシーな刺激を求めたくなる。
また、具は多いが、とり肉は小さめ、
そして、コーンが非常にたくさん入っている。
私は、スープカレーにコーンは必要ないと感じている。
次回食べる時は、「コーン抜きで」とお願いしたい。

店内は狭い。
他の客との距離が近く、通路が狭い。
この狭さは、カルチャー的ではなく、落ち着かず堅苦しい。
それと、店員が、小さな店にもかかわらずマニュアル的で、
ノー・スマイル度が高い。
なのに混んでいる。
思い返してみると、女性客割合が高いような気がする。
女性達は、どこに魅力を感じてるんだ?
教えてほしいね、こんなオイラだけど。

■MAJI Ⅱ柊(札幌市中央区南3条西8丁目 島屋ビルB1F)
店名の「柊」は、「ひいらぎ」と読む。
狸小路の8丁目、アーケードが途絶えた狸小路に面している。
思いの外、表の看板が大きいため、
狸小路を歩いていけば、すぐに見つけられるだろう。
柊/店 
店は、半地下のような位置にあり、
店内に入ると、淡い照明にエイジア・ムードが漂っている。
そして、テーブルの配置や、通路とのバランスが良く、
その時点で美味しいカレーが食べられるような気がした。

スープは、サラサラしているのから、こってりしているのまで4種類ある。
おそらく最もベーシックかつサラサラだと思われる、
「昆布とかつおの和風だしベースの サリー・スープ」というのをチョイス。

非常にすっきりとした味わいで食べやすかった。
すっきりしているのに深みがあって、味はしっかりしている。
そのため、超サラサラなのに、ごはんや具との絡みは悪くない。
ふわっと柑橘系の香りが、ほのかに残るところもいい。

要は、女性的な味だと思う。
自分のことばかり喋り倒したり、
何を言っても反応が冷めている女性もいるため一概に言えないが、
女性らしい優しさを感じる味である。
現在は閉店したが、南8条にあった「マッサーラ」の
スープの味に近いかも。
柊/カレー 
具もそれぞれグー。
特にチキンの美味しさは、トップクラスだろう。
非常に柔らかく、とろとろしていて、
肉の旨みが品良く醸し出されている。
野菜も味つけも食感も程よく、大変満足できる。

ただ、スープはまろやかなわけでも、スパイシーでもない。
そのため、パンチが足りないと感じる方はいるはずだ。
最もサラサラのスープをチョイスしたから、
そう感じたのかもしれないが。

繰り返しになるが、この店のスープは、
サラサラからこってりまで4種類ある。
そして、ライスも、ターメリックや雑穀米など4種類ある。
さらに、チキン、野菜など具の種類がある。
よって、組み合わせの種類は、とんでもなく多くなる。

選択肢が多いのはありがたいことではある。
しかし、せめてスープは2種類までにしてもらえればと思う。
そして、「この店といえばこれ!」的な看板メニューを打ち立ててほしい。
表の看板はでかいのに、メニュー上は看板が見えない。

そういえば、前出の「ドミニカ」もスープは4種類あった。
そして同様に、表の看板はわかりやすかったが、
看板メニューはよくわからなかった。

日常は選択の連続だ。
今日の朝も、歯磨きとスーツへの着替えのどちらを先にするかで迷い、
どのワイシャツを着るかで迷い、
青信号のうちに渡れるよう走るか、あきらめて信号待ちをするかで迷った。

日常どころか、人生は選択だらけだ。

そんな毎日の中で、スープが4種類あって、
ライスが4種類あるから選べと言われても、
選択疲れをしている私としては、軽いパニックになってしまう。
「いいから、いちばんベーシックなやつにしてくれ!」と、
心の中で叫んでいたぜ。
そして、一番最初にあったメニューにしたというわけさ。


ただ、なごやか穏やかエスニックで、雰囲気は良い店である。
なんとなく長居したくなる空気感がある。
これは重要なポイントだと思う。
そして、なんらかんら言いつつ、カレーは美味しかったわけで、
別の種類のスープも試してみたい気持ちになった。

■カスタネッタ(札幌市白石区川下5条3丁目)カスタネッタ/カレー 
最近で一番のヒットである。
スープは、少しのとろみとともに、深い甘みがある。
コクがあってまろやか。まさに「コクまろ」である。
そして、このスープは土台がしっかりしており、パワーがある。
そのパワーが、最後まで持続する強さがある。

具も特に問題はない。というか、美味しいし、食べやすい。
野菜の切り方も工夫が施されている。
難点は、スープの量が少ないこと。
2回目に行った時は、迷わずスープ大盛り (+100円)にした。
また、「豚角煮」より、「鳥やさい」の方が断然お得感が上。
1回目は必ず「鳥やさい」をオーダーすべき。
  
この店の良さは味だけはない。
雰囲気が非常に良い。というか、私の好みである。
店内は古い洋館のようで、どこか懐かしさを感じる。
「アンティーク調」が心地よく、「あんちくしょう」のことも忘れられる。
カスタネッタ/店内 
テーブルの配置もいい。
建物の造りのせいもあるが、客同士が見えにくい配席になっている。
テーブルにかけてある布の柄と質感もいい。
というか、これまた私の好みである。

さらに、店は男性一人で切り盛りしているが、
明らかにロック店主である。
ハンチング帽をかぶり、細めのジーンズ。
ブラックキャッツのLPレコードや、クロマニヨンズの写真が飾られ、
流れる曲は、ぶいしーな(渋い)ジャズやブルース。
この上ない居心地の良さである。
 
この店は、厚別通沿いにあるが、外観もぶいしーで、
派手な色づかいや装飾をしていないため、
見逃しやすいかもしれない。
「ほんとに店やってるの?」的な不安にまで及ぶ外観である。
それもまた魅力でもある。
ただ、どこかトリックアートっぽさがあることは否めない。
カスタネッタ/店 
おそらく、あまり知名度が高くない店だろう。
そのせいか、これまで2度行ったが、2度とも客は少なかった。
それがちょっと心配だが、カレーは美味いし、雰囲気もいい。
ロック店主のさりげないきちっと感も良い。
正直、ロック店主と話がしてみたいと思う。

おそらく、ここがスープカレー店ではなく飲み屋だとしても
訪れたくなるような気がする。
とても応援したくなる店だし、
何かが分かり合える誰かを連れて行きたくなる店である。
また、もっと人気があっていい店だし、
でもあまり知られたくない気もする。

カップル向きの店でもある。
丸い貝殻のような形をした2人の思いは、
スープカレーという名の「ひも」で結ばれて、
愛という名のサウンドを奏でるかも。
その様はまさに、カスタネットのよう。
なんて恥ずかしいことを書いてしまう私はなんなのだろう。


テーマ:カレー - ジャンル:グルメ


宝くじを買ったことがない。
どうしてかって?
当たっちゃったら困るからさ。
えっ?当たって困ることなんてないだろうって。

確かに、金は欲しいぜ。
アイ・ワントだし、アイ・ニードだ。
ただ、億単位のマネーを手にしたらどうだろう。
心が乱れ、大切なものが見えなくなり、
挙げ句の果て、人生が狂い出すかもしれないよハニー。

しかし、そんな理由で当選したくないわけじゃないんだ。
そんなことに運を使われたくないのさ。
自分がかけてるものに運を使いたいからさオッケイ・カモーン!

宝くじを買ったことはないが、
何かの商品としてもらったことはあるぜ。
その時も、「当たっちゃったらどうしよう」と、
楽しみなどなく、不安だけだったのさ。

そんなおいらだけど、宝くじを買う人は一切否定しないぜ。
宝くじの収益金は、都道府県に配分され、
市町村にも補助金という形で交付されるんだ。
つまり、宝くじを買うことは、遠回りな地域振興でもあるのだ。
だから、宝くじは売れるにこしたことはない。

しかし、おいらは買わない、イエス・ウィ・キャン。
ただ、一等賞金が50万円なら買うかもしれなウイッシュ。
50万円くらいの運なら使ってもいいカモーン。
そもそも宝くじは、億単位の当選がある一方、
「はずれ」の数がとんでもなく多い。
50万円程度の現実味のある大金が当たる人を増やす方が、
リアルに嬉しいのではないか。

「宝くじは買わない」。
これは、1970年にリリースされた
RCサクセションのデビュー曲のタイトルでもあるのさ。
「どんなにお金があったって
 今より幸せになれるはずがない
 宝くじは買わない だって僕は
 お金で買えないものをもらったんだ」
 素晴らしい歌詞だぜベイベー、愛し合ってるかい!

愛はお金じゃ買えないぜ!
ただ、愛にお金は必要だ。
愛にはお金がかかるんだ。
それが現実だ。
以上です。
今日は闇雲に書いただけで、オチなんかないぜオーライ!


テーマ:日記 - ジャンル:日記


このところ、読書する時間が増えている。
先週、ある新たな心配事が発生し、
心の中にどんよりとしたものが住みついた。
時に暴れ、時にゆっくり転がっている。
それを鎮めたいのだろうか。
音を消した部屋の中で、なんとなく本を手にする時間が増えた。

私の場合、読書欲求が高まる時期と、
そうでない時期との差が激しい。
週に3冊読める時もあれば、
1か月かかっても読みきれず、ブック・オフする時もある。
今は、時間があれば本を読みたい気持ちである。
本を、心の平静のよりどころにしているような気もするが…。

さて、今回紹介するのは最近読んだ作品の中から、
文庫本3冊と、今年出版されたのが1冊。
どれも読みやすく、なんとなく本に没頭したい時に
うってつけの作品ではないかと思う。
それでは、どうぞ。

◆天野節子/氷の華
氷の華 
面白い本だと新聞広告で見た記憶があったことと、
立ち寄った本屋で平積みにされ、
絶賛コメントが添えられていたことから
文庫の安さも手伝って、なんとなく購入してみた。
また、作者の天野節子が60歳にして自費出版した処女作であり、
その後、評価が高まり、大手出版社から発行されたということも、
私の興味と読書モチベーションを高めた理由だった。

ストーリーといい、展開といい、
まさに2時間ものサスペンス・テレビドラマである。
読み進むと、コマーシャルが入る箇所まで見えてくる。
つまりは、展開がシンプルで、わかりやすいのだ。
また、500頁超の長編ながら、無駄部分は少ないため、
読みやすいし、読み進める。

物語は、主人公であるセレブ夫人が、
夫の愛人である女性を殺害するところから始まる。
つまり最初に犯人が明らかになる手法である。
ところが、セレブ夫人はなかなか捕まらない。
また、殺害されたのは、ほんとうに夫の愛人だったのか?と
殺害したセレブ夫人も刑事も疑問を抱いていく。
その後、小さなどんでん返しを2つ、3つはさみ、
後半は、なかなかの盛り上がりを見せる。

セレブ夫人の心の描写は丹念に書き込まれている。
しかし、彼女以外の登場人物のキャラ設定が総じて弱い。
もう少し、読者が自然にイメージづけられるよう
脚色してほしい気がした。
特に、刑事が主要な箇所で何度も登場するが、
登場シーンの長さのわりに印象が薄すぎる。
また、セレブ夫人の同級生達のキャラの棲み分けを、
もう少し早い段階ではっきりさせた方が、
中盤から後半にかけて、さらに引き込まれたと思う。

読みやすく、わかりやすく、先を知りたくさせる書きぶりではあるが、
その反面、セレブ夫人の心の描写が軸になり過ぎ、
さらっと物語が進んだ印象が残った。
魅力的な文章表現に乏しく、
また、社会性や時代性を、もっと盛り込んでほしい気がした。
そのせいか、なんとなく全体的に古くさい。
結果、まとまってはいるが厚みを感じない。

しかし、伏線はきちんと張られ、隙は少ない作品である。
新たな作家の読み物としては、まずまずではないか。
とにかく、2時間ものサスペンス・ドラマ的。
わかりやすいが、忘れやすいかもしれない。

なお、このセレブ夫人が一番大切にしていたものは、
自分のプライドだったのだと思わされ、
エンディングが近づくとともに、なんとも哀れな気持ちになっていく。

◆佐々木譲/笑う警官
笑う警官 

舞台は札幌。
現職女性警察官が殺害される事件が起こった。
犯人に特定されたのは、
殺害された女性と交際関係にある現職警察官の男。
その男を、道警本部が総力をあげて探す。しかし。

どうも怪しい匂いが漂う。
犯人とされた警察官は、でっちあげられたかのようである。
そこで、主人公である刑事は、
勤務時間外を利用して、独自に、そして極秘に捜査を始める。
真犯人を捜すとともに、犯人扱いされている男を匿(かくま)う。
そして次第に、道警の闇が明かされていく、というストーリー。

これは面白かった。
常に緊張感があり、スピード感があり、
特に終盤のたたみかけるような展開は非常に楽しめた。
気づくと、かなりの早さで読んでいる自分に驚いたほどだ。

舞台が、私の住む札幌であることも、
物語に入っていけた大きな要因である。
ストーリー上の拠点は、
北1西5の中央警察署(本では「大通署」としている)と
狸小路8丁目。

そのほかには、円山のマンション、新川通の運送屋、
苗穂駅近くのパチンコ屋、伏古公園など。
全て明確にイメージができる場所だけに、
親近感も湧いたし、臨場感を高めた。

全編にわたって、「追いつ追われつ」と「駆け引き」が基本にある。
そして、絶妙のタイミングで敵、あるいは味方が現れたり、
意外な展開が程よい深さで繰り広げられて、本線とつながっていくため、
中だるみはなく、ずっとストーリーに引き込まれっぱなしだった。

真犯人の特定に近づいていく過程も面白いが、
犯人扱いされている警官を守るために、移動させたり、
トリッキーなことをしたりする、その駆け引きが非常に楽しめた。
また、当初は敵だった者が、協力者に変わっていったり、
協力者のフリをして、情報を横流しする裏切者がいたりで、
常に動きのある作品となっている。

駆け引きで、特に印象に残ったのは、
警察にとってマル秘の情報源、いわゆる”協力者”である
ススキノの男のシーン。
犯人にでっち上げられた警察官の捜査で、
ススキノは警察官だらけだった。
その捜査中の警察官の耳に、
「真犯人は別にいる」という情報を入れさせるために、
協力者を使うのだが、
「情報を流してくれ」とは頼まなかった。
逆に、「真犯人は○○
だ。
そいつの情報を集めてほしい。これは内密だ」と告げる。
「内密だ」と耳打ちした方が、情報は広まるとよんだのだ。

注文をつけさせていただくと、
協力する刑事達の区別が、いまひとつはっきりしなかった。
若手刑事と女性警察官以外は、
年齢も上下関係も所属も区別できなかった。

話を進めていく過程で、キャラの棲み分けを明確にしていき、
それぞれの個性を掘り下げていってほしかった。

それと、文章表現。
佐伯が言った。「○○○○」。
町田が言った。「△△△△」。
というように、「誰々が言った」と記してから、その人のセリフがくる。
この書き方は、非常に違和感があり、最後まで馴染めなかった。
これが非常に多かった。
この表現を工夫すると、もっとスリリングになるように思えた。

とはいえ、警察内部事情モノとしては、わかりやすく、
スピーディなわりに、それなりの重みもあり、楽しめる作品だと思う。
主人公が、「人の命より大事な正義なんてない」と強く言うシーンは、
ぐっとくる。

◆奥田英朗/最悪
最悪 

不況にあえぐ町工場の社長、女性銀行員、パチンコ暮らしの無職男。
全くの他人同士であるこの3人が、
それぞれのちょっとしたつまずきから坂道を転げ落ち、
坂の下でぶつかり合うような形で出会ってしまう。
そこからは、3人が束になって谷底に転落していく。
そんな、ひたすらTOO BADな物語である。

分厚い文庫本である。
648頁に及ぶ。
ところが読み進められる。
タイトルどおり、ストーリーは最悪な方向に進むばかりであり、
人間の心の嫌な部分を見せつけられることの連続だが、
どうしても先を知りたくなってしまう。
そう、不愉快なのに読みたくなるのだ。
そうした「読ませ力」が非常に高いため、
加速度もアップし、長さを感じさせない。

展開は非常にテンポが良く、それでいて全く薄っぺらさはなく、
起こる出来事を通じて、巧みに人物像を浮き上がらせていく。
一度に出すのではなく、出来事とともに小出しに、
別の側面から人物を描いていくのだ。
作者の奥田英朗は、別の作品でもそうだが、
この手法が天才的に上手い。

簡単に言うと、「こういう人なら、こういうセリフを言って、
こういう行動に出るだろうな」という捉え方が絶妙。
そして、社会性と時代性をうまく絡めて、
リアリティのある人物を描いてる。

ストーリー自体も面白いが、人物描写の見事さに圧倒される。
特に、町工場の社長の焦燥と、
その妻とのすれ違いぶりは見事である。


主人公の3人はそれぞれに、ちょっとした歯車の狂いが生じる。
しかし、それを解決するためにやることが、ことごとく上手くいかない。
そして次第に傷口が広がっていき、
気づいてみると、取り返しのつかないところまできている。
そうした追いつめられていくブロセスにおける状況の変化、心の変化
の拾い方が実に緻密である。
逆に、止めようのない連鎖的な「ずるずる感」が凄まじすぎて、

ちょっと気持ち悪くなるところもあった。
しかしそれが、この作品の最大の読みどころではないだろうか。

そして、このような「連鎖的ずるずる感」は、
我々も皆、背中合わせなのではないか。
生きていれば誰しも、大なり小なりの問題を抱える。
なげやりになったり、放っておいたりもするが、どこかで食い止める。
踏みとどまれずに人生が崩れ落ちていく想像をしたことが
ある方も多いだろう。

誰しも、日常の中で、なんとか持ちこたえている。
そういう意味では、決して作り話だとか、他人事だとかで済まされない、
身につまされるような不安を感じる作品でもあった。

また、主人公達の有り様を見ていて、
「なぜそこで、臆病になれなかったのか?」とも感じた。
私は、「失うものなど何もない」などと言いたくない。
失いたくないものがいくつもある。
それを守るために、臆病になることも大切ではないか。
「臆病」という言葉は、否定的な意味だけで捉えてはいけない。

主人公達は、転落していく前から、
「つまらない」、「ぱっとしない」と口にしたり、
閉塞感が漂う毎日にうんざりし、疲れきっていた。
しかし、転落し始め、次第に後戻りできない状況になっていくと、
「あの退屈でつまらなくて、うんざりした毎日に戻れたら」
と考えるシーンが何度かある。
そう、うまくいかなくて、ぱっとしない日常の中に、
大切なものがあるのだと思う。

◆はたらきたい/糸井重里 監修
   はたらきたい
この本は、「ほぼ日刊イトイ新聞」という、糸井重里氏が運営する
ウェブサイトにおいて、
2007年に3か月にわたって連載された「就職論」を、

一冊の本にまとめたものである。
「はたらくこと」に関する糸井氏と5者との対話と、
各界著名人による100の言葉により構成されており、
糸井氏と5者との対話では、民間の人事専門家などのほか、
矢沢永吉氏も登場。
矢沢氏なりの「はたらくこと」について語っている。

「就職論」とあるとおり、
これから就職をする方の手引書になる要素はもちろんある。
しかし、それ以上に、
現在、働いている方々が、

今改めて、「はたらくことって何だろう?」と考えてみる時、
面白く読めると思う。
つまり、「どうやって就職するか」ではなく、
「いかにして働くか」を語る内容となっている。

基本にあるのは、
「何を大切にしてきたか」、「何を大切にしていきたいか」。
それをはっきり言えれば、
どんな仕事をして、どういうふうに関わっていきたいかが
見えてくるというもの。

正直、理想論のような部分は多いし、
「成功してる人だから言えるんでしょ」と感じるところもある。
しかし、仕事に行き詰まってる人にも、惰性でやっている人にも、
すがりついているだけの人にも、しっかりやっている人にも、
ちょっとしたスパイスになる言葉がたくさんある。
これを読んで、大きく変わる人もいるのではないかと思う。

みうらじゅん(漫画家)の面接対策の話は面白かった。
面接で緊張しないためには、どうしたらいいかという話の際、
こんなことを言っている。
スーツを着て面接官の前に座る、一般的に言われる「面接」じゃなくて、
例えば、「漁師になりたい」と漁師に言っても、
「レーサーになりたい」とレーサー関係者に言っても、
自分は漁師にもレーサーにもなれない。
それは見た目や言動で判断されるから。
つまり、知らぬ間に面接されているということ。
また、友達同士でも、恋人とでも、面接的な要素がある。
だから、人生というのは、面接プレイの連続なのだ。
ならば、いわゆる「面接」も、昨日やったことを今日やればいいだけのこと。

いい加減な理論ではあるが、なんとなく納得もできる。
日常、何を考え、何をして、何を言っているかが、
面接の際に出るということなのだろう。

子供を産んでも、働きたい奥さんが多いという。
それは、家庭に閉じこもっているのが辛いという理由もあれば、
単にお金のためという理由も多いだろう。
しかし、一番求めているのは社会とのつながりではないか。
そう考えると、奥さんだけではない。
定年退職した高齢者だって、実は働きたい人が多いのではないか。

私が働く理由は、お金のためだけではない。
もちろん、生活をしていけないから働くわけだが、
やはり社会とつながって、関わって、
自分のまともな部分を維持し、
幅広く、豊かな人生にしたいから働くのかもしれない。
煩わしいこともあるが、結局はそこなのかなと考えた。

この本の紹介において、最初の方で触れたが、
働くことに関連する、各界著名人による100の言葉が
掲載されている。
超プラス思考の言葉もあれば、理解しがたい言葉もあり、
成功者のちょっとした自慢?的なすかした言葉もある。
その中で、最も印象に残ったのが、萩本欽一氏の言葉。
「したくない仕事しかこないんです。でも、運はそこにしかない」。
含蓄のある言葉である。


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