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不調である。
心身ともに、患っている。
うまくいかないはがゆさに参っている。
そのせいで、パーソナルなコンピュータに電源さえ入れられず、
足りない何かを酒で埋めたこの何日か。

仕事に関係するものではない。
仕事に影響するものでもない。
よって、仕事に行きたくないわけではなく、
仕事は普通にこなすし、
むしろ、仕事中は患いを忘れている。
しかし、そのせいで、仕事が終わった後の憂鬱さは重たい。

空は晴れてるのに雨が降ってるのさ。
ベイベー ベイベー 教えてくれ。
こんなことってあるのかい?という感じだ。

結局は、破れた傘が捨てられないのだ。
雨が降っている。
だから、傘を差す。
しかし、どうしても破れた傘を使いたがる。

5月10日のライブが近づいているのに、
新しいギターがあるのに、
この4、5日、ギターに触れてさえいない。
そのライブで演奏する1曲の歌詞を紹介したい。
2008年のクグエ・ロックの根幹となる曲である。


「破れた傘が捨てられない」

今日も一日が終わった
昨日と同じ場所に ただ立ちつくす
水のない川を渡った
重たいカバンぶら下げて でも中身は空っぽ

君がいなけりゃ埋まらない
使い古した慰めの翼で低空飛行

破れた傘が捨てられない
雨にうたれても会いたい
いつから君は変わった?
いつから雨は降り出していたんだ?

なんとかなると勘違い
甘い思い出にひたって また空回り
どうせ無理だと投げ出して
けれど諦めきれなくて また元に戻る

君がいなけりゃ眠れない
安っぽいおざなりの翼で低空飛行

破れた傘が捨てられない
雨にうたれても会いたい
いつから君は変わった?
いつから雨は降り出していたんだ?


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テーマ:毎日が音楽だ - ジャンル:音楽


北京五輪の聖火リレーについてである。
混乱の中で長野の聖火リレーは終わった。
予想されていたとおりの結果である。

いったい何のための、誰のための聖火リレーなのだろう。
この状況で、聖火リレーをやる意味は何だったのだろう。
「日本不参加」にこそ、意味があったように思えてならない。
強いて言えば、聖火リレーのあり方を考える機会になったこと
だけに意味があったのかもしれない。

日本としても、世界との付き合いがあり、
付き合いは、ある意味大変重要なことであり、
一概に否定はしないが、
この問題こそ、付き合いをしないでほしかった。

ところで、報道は一切言及していないが、
欽ちゃんの発言は、ちょっと問題ありではなかったか。
萩本欽一氏が走行中、発煙筒のようなものが投げ込まれた。
走り終えての萩本氏の一言。
「欽ちゃんが走ってる時にやらないでよ!
 ハッピーに終わらせたかったのに」

萩本氏以外の走者の時ならよかったのか?と思える発言である。
仮に国会議員が走り、この発言をしたなら、
「不適切」だと扱われて然るべきである。
萩本氏に、おごりがあったことは否定できない。

とりあえず、けが人などもなく終了したのは何よりだ。
しかし、中国の国旗を多さにはしらけた。
相当の中国関係者が動員されたのだろう。
中国関係者は、オリンピックの成功だとか、平和だとかを
主張していたが、それを最も疎外しているのは彼ら自身である。
彼らの愛国心や結束力には驚かされる。
見方によっては、素晴らしいとも言える。
しかし、その使い途を誤っているのは明白である。

そもそも、まともにオリンピックはできるのだろうか。
北京五輪開催が決まった時から気になっていた。
そういう方は多いだろう。
日本に不利なジャッジがなされる可能性は十分にある。
選手村においても、日本が不利な環境に置かれる何か
(例えば部屋の環境、食事など)がありそうな懸念まである。

私は、オリンピックと平和を関連づける考え方に違和感がある。
「平和」という意味を持たせようとするから、
政治が絡んでくるのである。
平和は常日頃から考えていくものである。

オリンピックは、純粋にスポーツ競技であってほしい。
純粋に世界一を競うものであってほしい。
そのためには、公正、公平であることがまず重要である。
オリンピック組織委員会は、これを徹底してほしい。
そうでなければ、大会自体が、
今回の聖火リレーと同じようなことになりかねない。
今に始まったことではないが、
中国は世界が何も見えていない。

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昨日の帰り道、あらゆるところで、
桜が咲いているのを目にした。
こんなに早い時期に開花したとは驚いた。

10年くらい前までは、
桜がいつ咲いて、いつ散ったのかなど、どうでもよかった。
ただし、加護亜依の芸能界復帰ほど、
どうでもいいことだとは思っていなかった。

↓通勤経路にある桜(北7東2)
桜080424

ここ数年は、わざわざ桜を見に出かけたりしている。
桜だけではなく、花全般、ひいては植物を見るのが
好きになってきている。
これも年齢を重ねたゆえのことなのだろうか。

屋外に咲いている花や植物を見るのもいいし、
室内に飾ってある花や観葉植物を見るのもいい。
花を差してある容器や壺にまで興味が沸く。
「これ、素晴らしい容器ですね~。センスがいいですねえ。
 いやあ、ほんとに見事な容器ですよ、これは」などと、
必要以上に激しくコメントする時もある。
つまり、二つの意味で、「かびん」に反応してしまう。
クグ丸です。

昨日、同僚の中村NBRが、
「花見でもしますか?」と提案してきた。
いつものように、表情は豊かだが、
気持ちのこもってない言い方だった。

私の働く業界では、「花見」と称して、
普通にどこかの店で飲み会をやる場合が多い。
しかし、中村NBRは、ほんとに屋外で、
花見をしないかと言ってきた。

焼き鳥はどこで買って、ビールのサーバーを用意して、
どういうメンバーで、など、
次第に具体の話になっていった。

場所は、職場の近くの、ちょっとした広場である。
ベンチなどもあるが、通行人も多い場所である。
果たして実現できるのか。
具体の話になるにつれ、面倒に感じてきたのか、
次第にテンションが落ちてきている中村NBRが
気にかかるところである。

昨日はそれっきり、その話は途絶えた。
中村NBRは今日、とある研修に参加するため、
職場にいなかった。
しかし、昼休み、偶然、喫煙所で彼に会った。
その時、彼がにやにやしながら言ってきた。
「花見の件、話、進みましたか?」

そう、彼は勝手に、私を花見の幹事に仕立てていた。
その次に発した言葉が、
「なんか用意するものあったら、言ってください」。
非常に得意そうな顔をして、そう発言した。
ほとほと人を食ったようなことを言う奴である。

さらには、「花見の席で、歌ってくださいよ」。
そうした場所で歌っても、あまり真剣に聴かれないだろう。
また、周りの他人にとっては、単なる騒音になりかねない。

10年くらい前に、花見の場所で、
漫才のようなことをしている若者のグループを見たことがある。
ど素人丸出しの、非常にお粗末なものだった。
これじゃあ、盛りあがるどころか、しらけるだろうと思った。

ところが予想に反して、結構な拍手と歓声があがった。
おそらく身内が無理して盛り上げたのだろう。
なるほど、花見には、サクラがつきものですからね。
クグ丸です。


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苦悩している。
歌詞が作れない。
歌詞の断片はできる。
それらがつながらない。
ストーリーとして成り立たない。

「今日は、何時までかかっても歌詞を作るぞ」と意気込む。
しかし、ペンは進まない。
イメージが膨らまない。
次第にイライラしてくる。
そこで、イライラを解消し、想像力をかき立てようと、
いも焼酎をロックで飲み出す。
気づくと、ジャズなんかを流し、適度につまみがあり、
すっかり、いも焼酎をいい状態で飲むための環境になっている。
そして、そのうち眠ってしまう。

苦悩している。
クノール・カップスープでも飲めばいいのだろうか。
右脳への刺激が足りないのだろうか。
それとも、単に私は無能なのだろうか。

ひとつのことを色々な角度からシンプルに書きたい。
柱になるテーマはある。
ただ、キーワードがない。
キャッチーなキーワードがない。
それが、歌詞がまとまらない、最大の理由である。
おそらく今なら、「苦悩」というタイトルの曲なら書けるだろう。
しかし、それは歌いたいテーマではない。

歌詞に煮詰まった私は、美味しい菓子を求めた。
気分転換を兼ねて、20日日曜日、岩見沢方面へと車を走らせた。
岩見沢に、あんこをバームクーヘンでくるんだ美味しい和菓子があると、
少し前に知人から聞き、気になっていた。

私は甘いものが好きである。
あんこ系とクリーム系で、甘みがしっかりあるタイプを好む。
最も好きなのは、「すあま」や「べこもち」みたいなものである。
ゆえに、深川の「うろこだんご」は、かなりお気に入りである。
また、ロールケーキは、見かけると常に欲しがる。
マルセイバターサンドとトラピスト・クッキーは、ちょっと苦手。
「白い恋人」よりは、「ノースマン」が好みである。
というか、40男にして、自分の甘いものの好みを
一生懸命書いている自分が情けない。

とはいえ、岩見沢まで足を伸ばした。
「あんこをバームクーヘンでくるんだ和菓子」という情報だけで、
なんという商品名で、どこに売っているのかもわからずに行った。
岩見沢名物なら、駅に行けばわかるでは?と思い、JR岩見沢駅へ。
そして、まずはキヨスクへ。
すると、売っていた。
その和菓子は「こぶし」という商品だった。
とりあえず、一つ買って、駅のベンチに座って食べてみた。
美味しかった。甘さがしっかりとしていて、しかし、くどくない。
かなり私好みの味だった。
また、大きさも丁度いい。

↓長さは約8cm。大きさのわりに、1個で結構満足できます。
こぶし

そこで、いくつか買って帰ることにした。
せっかくなので、「こぶし」の包装紙に書いてあった製造元である
「金作屋」なる店まで行って買ってきた。
JR岩見沢駅から500mくらいだろうか。
岩見沢の飲屋街を過ぎると、店が現れた。
それにしても、地味にすごい店名である。

金作屋

駅のキヨスクでも売っているくらいなので、
岩見沢では有名な和菓子なのだろう。
私は全く知らなかった。
岩見沢に知り合いがいない人生を送ってきたからなのだろうか。
「岩見沢のお菓子といったら、“こぶし”でしょう」と
言ってもいい商品である。
お土産にも手頃で、これは薦められる。
しかし、岩見沢に行ってきた昨日の夜も、
歌詞は全く浮かばなかった。


行き詰まった私が次に考えたのは、

いつも無意識にやっていることをやめてみようということだ。
例えば、テレビは一切見ない。夢も見ない。
音楽は一切聴かない。上司の言うことも聞かない。
本は読まない。空気も読まない。
酒は飲まない。要求も呑まない。
そうすると、必ず空白ができるはずである。
その空白に入り込むものこそ、歌詞になる。
そう考えた。

今日、職場に行った。
上司の言うことを聞き、空気を読んで行動し、
中村NBRの要求を呑んだ
やはり今日も歌詞ができなかった。

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昨日、ギターを買った。
いわゆる「エレ・アコ」を買った。
エレキのようにアンプにつなげるアコースティック・ギターである。

5月10日のライブに向けて、
最近はギターを弾く日が増えていたが、
そうした中で、今、弾いているギターに限界を感じていた。
どこに限界を感じたかというと、音と見た目である。

なにせ18年前に買ったギターである。
その年月相応に、あらゆる点において疲弊していた。
特に、元々ボディが薄めのギターだったため、
音が細く、深みや温かみがないことが気になっていた。

さらに、ネックのデザインに時代的な古さを感じたことや、
丸めのボディであることも、
私の音楽性、私の性格、私の身なりなどから、

どこか合わない、何かが違うと、ずっと感じていた。
そこで、ついに決心したのだ。

この10日ほどの間に2度、玉光堂楽器センターに足を運んだ。
試し弾きをするわけでもなく、ギターを眺めていただけだったが、
ターゲットは2本に絞っていた。
昨日は、仕事を終えて玉光堂楽器センターへ直行し、
午後6時には、試し弾きを始めた。

ターゲットの2本を取っ替え引っ替えして何度も何度も弾いた。
こういう時、玉光堂楽器センターの店員の方は、
完全に放っておいてくれるので、非常に助かる。
というか、だから、これまで楽器はここで購入してきたのだ。

ギターは、見た目も重要である。
私は、ターゲットの2本をギタースタンドに立てかけ、
あらゆる角度から見比べた。
また、そのギターが私に似合うかどうか、これはさらに重要である。
私は、自分がギターを持っている姿を見たかった。
しかし、店内に鏡がないため、ショーウインドウの前に立ち、
戻ってギターを弾き、またショーウインドウの前に立ち、また弾く。
そんなふうに店内を怪しくうろついた。
結局、購入するギターを決定したのは、午後7時30分だった。
最後は、音よりも見た目を優先して決めた。

新しいギター

6月のボーナス時に購入代金が引き落とされるという痛手も忘れて、
ギターを購入したことに興奮した。
気持ちが高揚し、帰り道の記憶があまりないし、
家に着くと、興奮のあまり、ギターを弾くより先に、ビールを飲んだ。
自宅では専ら、物足りない何かを埋めるために酒を飲む、
いや、酒にすがりつく、そんな私が、
喜びを理由にビールを飲んだのはいつ以来だろう。
新しいギターを手にしたことにより、
さえない私の毎日が変わるような気がした。

午前2時頃まで、ギターをいじっていた。
おかげで、「新しいギター」という曲ができてしまった。
この喜びを、この切なさを、この胸の高まりを、
言葉とメロディにせずにはいられなかったのだ。

ギターの進化に感動した。
この豊潤な音、この柔らかい音、この弾きやすさ。
ギターの価格は、この20年間、ほとんど変わっていない。
というか、むしろ値下がりしているかもしれない。
しかし、性能は著しく上昇した。

新しいギターと私

今日、スタジオ・ミルクへ行き、新しいギターを弾いた。
大きな音を出してみて、改めて、新しいギターの良さを感じた。
幸せだな、とも感じた。

約7年間、音楽活動をしていなかった。
1年前は、新しいギターを買うことなど、想像すらできなかった。
ギターはケースに入ったままで、手を触れることもなく、
生活における目の前の厄介ごとに対峙したり、
避けたりしていただけだった。
そんな毎日の中で、気づかないうちに、
何か大切なものを失っていってるような気がしていた。
でも、ほんとうに大切なものは、
そう簡単に自分の中から消えはしない。
新しいギターは、それを気づかせてくれた。

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このブログを始めて間もない頃(8月24日の記事)、
店員の「大丈夫ですか?」の使い方が不愉快だと書いた。

例えば、靴の試着。
「履いてみていいですから」と店員。
私は、「あっ、いや、まぁ、いいです」と、やや曖昧に否定。
「履かなくて大丈夫ですか?」と店員。

例えば、スープカレー屋。
スープカレーを注文した私に対して店員は、
「お飲み物は大丈夫ですか?」

「大丈夫ですか?」は、
危なげだったり、心配な時に使われる言葉だと、私は認識している。
「そんなことやってて大丈夫か?」や、
「風邪をひいてるのに大丈夫か?」という場合である。

靴を試着しない私は危なげなのか?
飲み物を注文しない私が心配なのか?
そう考えると、ちょっと、なめられているようにも思えてくる。

彼らの使う「大丈夫ですか?」は、多くの場合、
「よろしいですか?」的な、確認の意味で使っているのだろう。
そりゃわかる。
わかるさ、こんなオレでも。
誰一人幸せにできない、こんなオレでさえわかる。
折れたタバコの吸い殻で、あなたの嘘もわかる。

仮に「よろしいですか?」と言い替えても、
「履かなくてよろしいのですか?」、
「お飲み物は注文しなくてよろしいですか?」など、
初対面、しかも店員が客に対して、
「~しなくていいのか?」という否定的な表現で、
選択や確認を迫ってくるのは、
気持ちのいいものではないし、腑に落ちない。

しかし、彼らの前で、私はそんな気持ちを一切表に表さない。
ただ、気持ちが静まるのを待つだけだ。
そして時々、こうして記事にするだけだ。
それだけのことだ。

もちろん、「試着できますので言ってください」や、
「お飲み物は、どうしますか?」と、
それなりに普通に対応する店員も多数いる。
しかし、神経を逆撫でするような、「大丈夫ですか?」の使い方は、
店員のみならず、保険業、金融機関、公務員、報道機関など、
様々な業界で増えているような気がする。

さて、ここからが本題である。
「大丈夫ですか?」ほどではないが、この1、2年、
違和感をおぼえる言葉使いがある。
「ほんとですか?」である。

先に言っておくが、
私にとって好感度が普通以上の女性が言うぶんには全く問題はない。
むしろ、ラブリーベイベーに感じるほどだ。
むしろ、腑に落ちてしまう。

私にとって好感度が普通未満の女性や、
好感度に関係なく、男性が使う場合に違和感をおぼえるのだ。
なぜ、違和感をおぼえるのか。

「ほんとですか?」は本来、疑問を投げかける言葉である。
A「マリナーズのイチローって、
    名前はイチローだけど、実は次男なんだよ」(実話です)
B「ほんとですか?」
A「オレはいつもウォシュレットで清潔にしてるからね。
  なんつっても、肛門から虹が出るからね」
B「ほんとですか?」
こうした使い方が正しい。

あるいは、驚きを表す時に使う言葉である。
A「苗穂のツルハで、中村獅童、見ちゃったよ」
B「ほんとですか!」
A「この前、澄川の串鳥に行ったら、
  ラモスと太川陽介が一緒に飲んでたよ。
  “ルイ”つながりだと思うけどね」
B「ほんとですか!」
こうした使い方が正しい。

にもかかわらず、昨今の20代、30代の一部は、
単なる受け応えの際に、「ほんとですか」を使う。
私の職場でも、これを多用する男(30代)がいる。
以前、札幌から千歳へ行く時、
不可解な遠回りをした男である(2008.1.15の記事参照)。
仕事はきちんとやるし、人当たりも良く、上司のウケもいい。
私も認めている。
だが、いかんせん、不必要に「ほんとですか」を使う。

男 「昨日、飲みに行ったんですか?」
オレ「行っちゃったんだよねえ」
男 「ほんとですか!?」
オレ「ほんとほんと。昨日は二軒、行ってねえ」
男 「ほんとですか!?」
オレ「いや、ほんとに」
男 「主幹も二軒目、行ったんですか?」
オレ「ああ、阿部主幹?主幹は一軒で帰ったよ」
男 「ほんとですか!?」
オレ「ほんとだって、嘘じゃないって!


つまり、「いいですねぇ」、「そうですか」、「なるほど」、「へぇー」
などと受け応えすべきところが、
全て「ほんとですか!?」になっているのだ。
言ってる本人は、疑問も驚きもないのだろうが、
こちらとしては、疑われていると錯覚し、「ほんとだって」と、
いちいち弁明しているかのように会話してしまう。
何気ない会話なのにもかかわらず、
「頼むから信じてくれ」と懇願するに至る場合もある。
君の周りにも、無意味な「ほんとですか」を使っている人が
いやしないか。

A「30年間、継ぎ足し、継ぎ足しでタレを作ってる店で
  バイトしてたんだけど、そのタレ、全部、床にこぼしちゃってね」
B「ほんとですか?」
A「もう、あっという間に色んな方向に流れていってね。
  これがほんとの“タレ流し”みたいな」
B「コントですか?」
クグ丸です。

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私の年金の記録漏れ問題について、
これまで2度記事にした(3月25日4月2日の記事)。
その後も、年金特別便専用ダイヤルに電話をし続けたが、
結局、一度もつながらなかった。
札幌市内の社会保険事務所も、一度もつながらなかった。

年金特別便到着から3週間、何もできなかった。
最悪である。
札幌市内の社会保険事務所には見切りをつけるべきと
判断できただけで、不安と不信が増幅された3週間だった。
ドアをノックしても、何ひとつ反応がないのだからしょうがない。


4月12日、13日は土・日だが、
社会保険事務所の相談窓口を開いているという新聞記事を、
今月初めに目にした。
そこで、札幌以外の社会保険事務所へ出向くことにした。

札幌を除いて、北海道内にある社会保険事務所は12箇所。
その中で、札幌からの日帰りが、無理せずに可能なのは、
小樽、岩見沢、砂川、室蘭、苫小牧、旭川、留萌。

社会保険事務所のホームページには、
相談窓口の混雑状況が掲載されている。
それによると、室蘭と留萌は、ほとんど待ち時間なし。
旭川、岩見沢、苫小牧、小樽の順で混雑していた。
さて私は、どこの社会保険事務所へ行ったのか。

その決め手は、昼食で何を食べるかであった。
私が今、最も欲している地方の食べ物は何だろうと考えた。
即座に、「マルトマ食堂のホッキカレー」が思い浮かんだ。
そういうわけで、12日土曜日、苫小牧へ行ってきた。

苫小牧社会保険事務所

苫小牧の社会保険事務所へ相談に行く人は、
苫小牧市民のほか、日高管内に住んでいる人がメインだろうが、
混雑している札幌を避け、恵庭、千歳の人も、
苫小牧に出向いている可能性が高いため、
それなりの待ち時間は覚悟していた。

苫小牧の社会保険事務所の駐車場。
車は3台しか駐まっていなかった。
事務所に入るとすぐ、番号札を発行する機械があった。
そこに書かれた「只今の待ち人数」は「0」だった。
「あれ?今日、窓口相談やってないの?」と動揺したほどだ。
と同時に、拍子抜けした。
しかし、年金記録が抜けているよりはいい。


まもなく、受付らしき女性(30歳くらい)が来て、
「年金特別便とかの関係ですか?」と聞いてきた。
「そうじゃなかったら、どうなるんだい、ベイベー。
 君に会いたかった、っていう理由じゃダメかい?」と、
ブラッド・ピットを意識して私は答えた。

続けて女は、

「これに、住所、お名前、相談内容とか書いてください」
と言って、用紙を渡してきた。
そして、住所を書き、氏名を書き、生年月日を書いている途中で、
「こちらの窓口へどうぞ」と言われた。
「まだ書いている途中なんですけど、いいんですか?」と答えると、
「いいですよ。その用紙とかを持って、こちらへ」と言われた。
「用紙とかの“とか”って何を持っていけばいいんですか?」と聞いた。
女は私の質問を無視して案内した。

この女の最初のセリフの時点で、「とか」が気になった。
2度までは聞き流したが、たて続けに3度きたら、
彼女の今後のために、軽く指摘しておくべきだと思ってしまった。
その時、ランラン号の女性キャスター・ドライバーに対して
番組中に注意する日高晤郎氏を思い出したのは言うまでもない。

意味なく、「とか」を多用する洋服屋や飲食店の店員に対して、
日頃から、「なんとかならねえのかよ」とか、
「だから若い奴ほど個性
がねえっつんだよ」とか思っていたが、
国家公務員とかにもいるんですなあ。

そして、相談窓口へ。
所持している年金手帳を提示し、
いつからいつまで、○○という会社で働いていた期間の記録が
すっぽり抜けていると説明した。

職員は、何やらパソコンに打ち込むと、
一旦、席を離れ、1分後くらいに戻ってきた。
そして一枚の紙を置いた。
そこには、私が抜け落ちていると指摘した年金記録が、
私の氏名、生年月日とともに印字されていた。
これによって、記録漏れが証明された。
そして職員から、今回判明した記録と、
これまで把握していた記録を統合して、
後日送付すると説明があった。

あっさりしたものだった。
この時点で、社会保険事務所の建物に入ってから、
5分くらいしか経過していない。

しかし、社会保険事務所に出向いたから、すぐに判明したのである。
年金特別便に封入されていた返信用葉書で対応していたら、
確認結果が知らされるまでに、
3か月程度はかかったようだ。
まして、返信用葉書への記載を誤っていたら、
余計なやり取りが増え、もっと時間がかかっただろう。

電話が全くつながらない状況で、
年金特別便で送られてきた
書類の内容がよくわからず、
社会保険事務所までも遠いところに住んでいる高齢者は、
全くなす術がない。

また、職員に聴いてみたら、土・日に窓口を開いても、
あまり混まないようなことを言っていた。
これは裏を返せば周知不足である。
平日は、1時間以上待たされるのは普通で、
電話すら全くつながらい。
私は、たまたま小さな新聞記事を目にしたので、
4月はこの土・日のみ相談窓口が開いていることを知っていた。
そのほかに知り得る方法は、ホームページしかないようだ。
社会保険事務所のホームページまで見て調べる人はわずかだろう。

新聞広告程度の周知はすべきだし、極端に言えば、
テレビやラジオのCMで周知してもいいことである。
この期に及んで、一番基本的なことが欠けているような気がする。

年金用務が終了し、マルトマ食堂へ向かった。
苫小牧産のホッキを使ったメニューで有名な店である。
ここのホッキカレーを食べるのが、この半年の念願だった。
店の入口へ行くと、7、8人のが行列ができていた。
私は、食べたいものに関しての行列は、我慢できるタイプである。

10分程度待って、席を案内された。
店は人であふれ、店員はバタバタしていた。
いつまでも、メニューを取りに来なかった。
5分くらいは完全に放っておかれた。
5分くらいは完全にホーチミンにいるかと思った。

しょうがないので、立ち上がり、
バタバタしている店員のところまで行って注文した。

カレーが出てくるのは早かった。
注文を取りに来ないで、放っておかれた時間と同じくらいで出てきた。
確かに名物となるに値するカレーである。
カレーの、どの箇所をスプーンにのせても、
必ずホッキがあるくらい、ホッキが沢山入っていた。
また、ホッキはやわらかく、そして甘く、
時間をかけて食べに来る意味があるカレーだった。

↓ホッキカレー800円。一般の女性は食べきれないと思われる量です。
マルトマ食堂・ホッキカレー

カレー自体の量も多い。
ごはんの量は、茶碗3杯くらいあるのではないか。
ルーは多めで好感がもてた。
カレーは玉ネギをふんだんに使ったような甘みとコクのある濃厚カレーだった。
カレーだけでも美味しい部類に入る。
しかし、濃厚だったせいか、
ホッキの味が消されている気がしてしまった。
それにしても、とにかく量が多すぎた。
せっかく美味しいカレーなのに、後半は飽きてしまった。

会計の時も無愛想だった。
とにかく混んでバタバタしていて、
レジのあたりで、しばらく待たされあげく、
「ありがとうございました」の言葉はなく、
「はい、おつり」だけで終わった。

壁と天井はサインと写真だらけ。駒苫・マー君田中氏のサインもあり(中央上)↓
マルトマ食堂・店 マルトマ食堂・店内

対応が良ければ大絶賛したはずの店である。

対応が普通でも絶賛したはずの店である。
港のすぐそばにある古い食堂的な佇まい。
そんなところも魅力である。
それだけに、いくら混雑していたとはいえ、残念な対応だった。
大繁盛店としての「おごり」がありゃしねえか。
店員の態度が悪いと、客の態度も悪くなることを
忘れないでいただきたい。

以上のとおり、本来なら、「二度と来るか!」と思う店である。
ところが、他の客が食べていた「ホッキめし」と「生ホッキ丼」が、

かなり美味しそうに見えた。
悔しいが、また機会を作って、食べてみたいと思った。

とにかく、店員も客もバタバタしていた。

年金問題と同じである。



5月10日(土)にライブに出演することを先日書いた。
KENJI
氏のバンドのオープニング・アクトであることから、
チケット代(前売3,000円、当日3,500円)は、
私の身の丈より高額だが、KENJI氏も見られるので良しと
していただければと思う。恐縮です。

要は、私自身がいいパフォーマンスをやればいいのだ。
今回のライブは、新曲オンリーでいく。
全てこの半年くらいの間に作った作品でいく。
約7年間、ほとんど曲を書いていなかった。
しかし、昨年後半から少しずつ音楽活動を再開したことや、
この2、3年の混乱と挫折が、勝手に私に曲を書かせてしまった。
ギターとペンと紙が、
曲を書いてくれと
テレパシーノを飛ばしてきた。

既に完成している曲は15曲程度ある。
けれども問題は今日の雨、傘がない、ことと、
その15曲のうち、
歌詞がついているのが6曲だけだということだ。
正しく言うと、6曲しか完成していない。
結局、歌詞ができない、ということだ。

ライブで演奏するのは5、6曲なので、
現状で、なんとでも対応できるのだが、
メロディのみが完成している曲で、
どうしてもやりたいのがある。

10代後半から30代前半は、あふれるように歌詞を書けた。
満足できないこと、やってられないこと、
ポールタウンを歩いたこと、
豊平川の河川敷を自転車で走ったこと、
平岸の暑い夏、倶知安の吹雪の中の帰り道、
そうした怒り、欲望、切なさなどを、ストレートに歌詞にできた。

ところが、年齢を重ねていくうちに、
仕方のないこと、諦めなきゃならないこと、
いやが応にも受け入れなきゃならないことを経験した。
その結果、言いたいことがなくなった。
書けることがなくなった。

すっかり、退屈な大人になってしまった。
想像力は欠落し、感情はセーブされ、
現実の儚さばかりを嘆いている。
描けぬ未来を憂いている。
この5、6年の間に会った人の名前はすぐに忘れ、
昼食時は大して腹もすかず、身体も固くなってきた。
そして、平らな道なのに時々つまづく。
オレは年寄りか!
後期高齢者か!
今さら、「長寿高齢者」って名称を変えるな!


そけより問題なのは、歌詞ができないことだ。
曲は作れるのに、歌詞ができない。
挙げ句の果て、「歌詞ができない」という曲を作ってしまった。
まさに、「ぼた餅 from 棚」である。

メロディとリズムはあふれてくる。
「スリー・コードのシンプルな曲」なんていう表現があるが、
コードは3つでも多いくらいだ。

ただ、歌詞は、1週間考えてもできない時が多々ある反面、
突如、フレーズが舞い降りてきて、30分でできてしまったりする。
そういう意味では、歌詞というものは、気まぐれ天使である。
そして、短時間でできた時ほど、いいものができたりする。
そんな時は痛快である。痛快OL通りである。

歌詞ができない。
それでも、とりあえずは生きていける。
石屋製菓や六花亭が、「かしができない」となったら末期的である。
ブロミスやアイフルが、「かしができない」となったら致命的である。
それに比べれば、まだマシなのかもしれない。


特別なことや、すごいことを歌詞にしたいわけではない。
ありふれたことを、ありふれた言葉で、
でも、言い回しはクグエチックが止まらなくしたい。
考えて、絞り出して、整理して、また直して、
結局、すごくシンプルな歌詞にしたい。

果たして私は、歌詞をかけるのだろうか。
アコースティックのライブならば、結構歌詞は聴き取れる。
しかし、どれだけの人が真剣に歌詞を聴いてくれるだろう。
とりあえず、曲として成り立つ程度に、
適当な歌詞で体裁を整えようか。
いや、そんなことはできない。
それでは、歌詞ではなく、「まやかし」になってしまう。

また経過を報告します。

テーマ:歌詞 - ジャンル:音楽


今日は、桜庭一樹の直木賞受賞作「私の男」についてである。
このブログの1月5日の記事、2007・ブック・オブ・ザ・イア」
において、桜庭一樹の「赤朽葉家の伝説」を大賞にした。
展開の巧みさ、意外性、リアリティ、ふざけ方…、
その全てが素晴らしく、圧倒的に引き込まれた面白い作品だった。

その後、桜庭一樹は「私の男」で直木賞を受賞。
当然のごとく、読んでみた。
大きな期待をもって読んでみた。
展開の巧みさ、意外性、リアリティ、ふざけ方…、
何ひとつなかった。
「あれっ?これで終わっちゃうの?」という、
別の意味での意外性があった。
読み終わった後の、予想し得なかった虚無感が、
最大のどんでん返しだった。
要は、オチが用意されていないかった。
正直、買わなくてもよかったな的作品であった。
私の男
主人公の女は、小学校4年生の時、
北海道南西沖地震による津波で、両親と兄弟を失い、
家族の中で一人だけ生き残る。
その女を引き取ったのが、遠い親戚にあたる25歳の男。
この2人の15年間にわたる、キモい人生が綴られている作品である。
これを2008年(女24歳、男40歳)から、
1993年の北海道南西沖地震まで遡る形で書かれている。

とにかくキモい。
なにせ、この2人、できちゃってるのである。
できちゃってるが故の結びつきの強さを表現している箇所が多い。
多すぎる。正直しつこいし、くどい。
そして、全編にわたって暗く、湿り気が強く、生臭さすら漂う。
それでいて、ストーリーは軽い、というか、
不思議とあっさりとしている。


また、この男のキャラが、いけ好かない。
ふざけた、ただのだらしない男にすぎないのだが、
これを美化して、格好良く描きすぎ。ひいてしまった。
そして、煙草を吸いすぎ。
登場する場面の80%は煙草を吸っている。
読んでいるだけで、湿ったタバコ臭さがムンムンするが、
この女、「たばこ臭い」とは一切言わない。
リアリティが無さすぎ。

桜庭一樹は、イマイチの人を描くと非常にいい味を出してきた。
その人の欠けている部分に、妙に愛おしさを感じさせるのが上手い作家
であると認識していた。
この作品は、愛おしさは全くなく、不快感だけだった。

しかし、良い点もあるから、こうして私も書いているのである。
桜庭一樹は、読ませる力のある人だ。
不快なのにもかかわらず、読み進めたくなるようなドキドキ感の演出は
さすがである(結局、肩すかしをくらったが)。
特に序盤から中盤は、かなり引き込まれる。
それだけに、後半、尻すぼみなのが非常に残念である。

この女は、奥尻島で被害に遭った後、高校1年生まで紋別で暮らす。
冬の紋別の厳しさや、流氷の存在の大きさが、執拗に書かれている。
少し飽きるが、冬の紋別に行きたいなと思えた。
紋別の良い部分を、ほとんど書いていないにもかかわらず、
行きたいと思わせるような描き方ができるのは評価したい。

ただ、奥尻、紋別と、北海道が舞台になっているものの、
北海道弁の把握に甘さがある。
年配者のセリフで、「もう十時を過ぎとるよ」、
「早くやらないとならんよ」、「長生きなんかするもんじゃねえ」などある。
こんな言葉を、北海道の人は使わない。
「北の国から」の田中邦衛のアクセントに匹敵するほどひどい。

「~しとるよ」などという言葉つがいは、
ネイティヴ北海道人から、今まで一度も聴いたことがない。
「早くやらないとならんよ」ではなく、「早くやらねばねえべや」が正しい。
「長生きなんかするもんじゃねえ」では、長渕言葉である。
北海道の年配者は、「じゃ」を使わない。
「するもんじゃねえ」ではなく、「するもんでねえ」が正しい。

また、この作品、おそらく「血のつながり」が根底にあるテーマだろう。
思えば、「赤朽葉家の伝説」も「少女に向かない職業」も、そうだった。
血の強さや血の持つ意味を、とことん追求しているように感じる。
それは悪くないし、桜庭一樹の執念さえも感じさせる。

繰り返しになるが、不快なのにもかかわらず、
読み進めてしまえる作品である。
これを絶賛する方もおられるはずだ。
話は、2008年から始まって、1993年まで遡ることにより、
どうして今、こういう状況にあるのかがわかってくるのだが、
この先、つまり、2008年以降はどうなったのかが気になるし、
1993年以前がどうだったのかが気になる。
そういう意味では、中途半端に終わっているように思うし、
その反面、まだ続きが読みたいと思う。

「私の男」は、売れている。
直木賞という冠がつくと、やはり売れる。
札幌市の図書館における予約数も200を超えているようだ。
読みたい方は私に言っていただきたい。
現在のところ予約ゼロである。

テーマ:読書 - ジャンル:小説・文学


今日(4月2日)の新聞の夕刊を見て驚いた。
社会保険庁は、全ての年金受給者と加入者に、
「ねんきん特別便」の発送を開始した、との記事を見たからだ。

3月末までに送付された「ねんきん特別便」は、
記録漏れの可能性が高い人が対象だった。
私もその該当者だった。
3月25日のブログの記事にあるとおり、
私のもとに、3月21日に「ねんきん特別便」が届き、
2年2か月分の記録漏れがあった。

その後、この10日間あまり、
「ねんきん特別便専用ダイヤル」に、何度も何度も電話しているが、
未だに一度もつながらい。

そこで、札幌市内の社会保険事務所に直接出向くことにした。
ただ、相当に混雑していると聴いていたので、
「どのくらい待ち時間が必要か」、
「何時頃だと比較的空いてるか」、
「証拠資料は、どんなものを持っていけばスムーズか」など、
事前に確認してからと思い、電話をした。

ところが、である。
今日まで一度たりともつながらい。
常に話し中。一日中話し中である。
呼び出し音だけでも聞いてみたいものだ。
チャンスさえくれようとしない。
道は全て閉ざされている。
通行止めフォーエバーである。
理解ができないし、迂回ができない道の上にいる状態だ。

このように、記録漏れの可能性が高い人が対象だった分の確認や
処理どころか、受付すらできていない状況である。
にもかかわらず、なぜ今日から、全ての年金受給者と加入者に、
つまり、オール・ザ・ピープルに発送をしたとは、どういうことだ。
ますます、問い合わせの電話の数は増え、
社会保険事務所の窓口は混雑するだろう。

現在の社会保険事務所の混雑ぶりは、
国に正しく伝わっていないのか?
ビフィズス菌が生きたまま大腸まで届く健康食品がある時代に、
社会保険事務所の混雑ぶりは、国まで届かないのか?
縦割り行政と言われていながら、縦の連携すらできないのか?
また、今後さらに混乱することを想像できないのだろうか?
オー・ザ・ピーポーに発送する前に、
なぜ、イマジン・オー・ザ・ピーポーできないのか。

社会保険事務所の職員と話がしたいのに、
それ以前に、全く話にならない。
コップの水は溢れている。
別のコップを用意しなければならないのに、
社会保険庁は水の量をさらに増やした。
おかげで、こっちはずぶ濡れだ。

そもそも論になるが、
政府は、「3月末までに宙に浮いた年金の統合作業を終了させる」と
プロミスしたが、
私のもとに、「ねんきん特別便」が届いたのが3月21日。
この時点で、既に終わっている。
時間がなくて、始めようにも終わっている。
政府の言ったことは、ピクチャーに描いた餅だった。
政府は、もはや「せーふ」ではなく、「アウト」だと言わざるを得ない。
クグ丸です。



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